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和田 正三
九州大学大学院特任教授
東京都立大学(首都大学東京)
名誉教授
日本植物学会元会長
国際光生物学連盟元会長

「見栄を張らず、恥ずかしがらず、勇気をもって」

九州大学大学院
特任教授 和田 正三

「ヘテロ・リレーションによる理学系人材育成」の目的を一言で言えば、諸君を大学院生の内に国際的に活躍できる人物に育て上げようとするものであろう。確かに、国際会議における日本の若者は欧米諸国の若者に比べれば勿論のこと、中国、韓国など隣国の若者達に比べても大人しく、厳しい言い方をすれば、存在感がない。もっと積極的に自分の研究を宣伝し、意見を述べられるようになるのが望ましい。国民性がその一因かもしれないが、明らかな原因の一つは英語が苦手なことであり、もう一つは人前で議論をするための教育を受けていないことだ。私はこのプロジェクトのアドバイザーとしてお役に立てる自信もないし、高尚なことは言えないので、わずかな自分の経験と考えを述べさせていただこう。
    上記の二つの原因は、適切な教育と学生自身の努力によって十分乗り越えられると思う。もう一つ、必須であり、かつ厄介なのが、無知や下手を恥ずかしがらないという勇気である。大方の日本人には、これが最も致命的な問題点かもしれない。我々には「見栄」があり、人にどう見られているか、どう思われているかが大いに気になる。少しでも良く見られたい。小生の行動もほとんどがこの厄介な「見栄」に縛られている。くだらない、と思いながらも服装一つについてもそうだ。
    大学院の学生の時、植物ホルモンに関する日米セミナーが京都で開催され、指導教官であられた古谷雅樹先生は、英語で話すのは始めての小生に45分間の発表の機会を作って下さった。会期の直前に研究室を訪問されたサスカチュワン大学のHans Gruen教授の前で予行演習を行ったが、その直後にGruen教授はご自身で、小生のスライドを使って、発表とはどうするものかをやって見せてくれた。お陰さまで、図、表を英語で説明するときの表現法等を学び、新幹線の中で原稿を書き直し、発表の時にはそれを読んだ。アメリカからの参加者何人かが褒めてくれたのが、その後の小生の勇気に繋がっている。
    次の機会は、日本で行われた細胞骨格の会議であったが、この時の発表には強烈な印象が残っている。小生の発表の直後、今は外国で研究室を主催されている女性研究者に「和田さんの英語は、3人称現在の動詞にsが付いていないのよね」と評されたことだ。研究の内容ではなく、小生の英語の細かい文法のミスをつかれた。本来ならここで見栄を張りたい所だが、すでに過ちを犯した後であり、言い訳も立たず、「どうせ僕は英語はできないのだから、通じれば良いでしょ」と見栄を切った。勿論正しい文法の美しい言葉を話すのが理想であるが、文法や発音ばかりを気にしていたのでは会話にならない。爾来、外国語は通じさえすれば良く、巧く話す必要ない、と思っている。語学に対する小生の精神的強みは、「どうせ自分は外国人、人より劣っていて当然だ」という変な自信、すなわち開き直りである。見栄を張る必要がないのは本当に気楽である。
「国際的に活躍できる人」と「国際人」とはカテゴリーの違う話だろうが、我々はまず国際人であるべきだろう。ではどういう人が国際人か、定義は色々あると思うが、小生の考える国際人は、世界中どこに行くにも日本国内を旅する程度にしか感じない人だと思う。人種が違おうが、言葉が違おうが、何をするにも臆することなく、平常心でいられる人である。そうなるには度重なる経験が必要だが、その基本はやはり言葉が通じるかどうかで決まる。まずは自分の意志をしっかり他人に伝えられるだけの文章力を身に着けることだ。最低限、この努力だけは必要である。あとは偏見を持たないことだ。
    さて「国際的に活躍できる人」にはどうすれば成れるのか。小生は今までに何回か国際会議の主催や国際組織の会長をまかされそうになったが、多くの場合何とか逃げ延びて来た。なぜ引き受けたくないかを考えてみると、その理由は簡単で、言葉が不自由であることのほかに、自分の知識・常識に深さや幅がないためである。更にその裏には、言葉と知識の不足を揶揄されないか、という見栄(心配)もある。国際的に活躍するためには、分野・対象のいかんを問わず、自分が専門とする分野の知識を十分に蓄え、常に他の研究者と対等に議論できるだけの準備をしておかなければならない。なるべく広い範囲の最新の関連論文を読んで理解しておくことも必要だ。外国の研究者と比べると、とかく日本人は専門の間口が狭い。それは読む論文の数が少ないからに違いない。
    大学院生の間に、言葉の壁を乗り越え、知識の深さと幅を増やして、何時でも誰とでも議論ができるようにしておくことは、その後の長い研究生活にとってこの上ない恩恵をもたらすのは明らかである。ただ、生まれた時から身に染み付いた母国語とは違って、歳を取ってから学んだ外国語は使わなければすぐに錆び付いてしまう。勿論学問も日進月歩であるので、両者とも絶え間ない努力を続けて行かなければならない。その下地を何時確立するかが問題であり、「若かければ若いほど良い」のは当然である。「ヘテロ・リレーションによる理学系人材育成」の成果に期待したい。