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栗山 拓
学校法人
大阪初芝学園元理事
大阪府中学校
理科教育研究会元理事
堺市立中学校元校長

節目の時代

大阪初芝学園
元理事 栗山 拓

 少年時代に見た教科書やこども雑誌に出てくる自然の風景は、いつも童謡の「春の小川」のように文字どおり教科書的で美しい楽園として描かれていました。一方、普段の生活では、たとえば、虫とり、魚とりをすれば、蚊や蜂に刺されたり、蛭にくっつかれたり、イバラの棘でひっかいたり、不愉快なことがいっぱいあって生傷が絶えない毎日でした。いったいあんな楽園はどこにあるのだろうと思いながらも実は楽しさのほうがずうっと勝っていて、飽きずにいろんな遊びをし、失敗もしていました。 「鉄腕アトム」とともに少年時代を過ごした私にとって、科学技術の進歩は夢をかなえるすばらしい手段に見えました。戦災のガレキの中から出てきたような電車がガタガタガーと走っていた頃ですから、高速道路が高層ビルの間を縫ってなめらかに続いている挿し絵は遠い未来の世界と思っていました。
 こうした体験を経てきた私にとって、あこがれの未来社会が現実になってみると、昔も今も、現実は自然環境も含めて決して甘くはないがおもしろいというのが実感です。
 わたしたちは今とてつもなく大きな節目の時代という現実にめぐり合わせてしまいました。日本でよく例にあげられる大きな節目といえば、幕末から明治にかけての近代化時代でしょう。アジアの国々が次々植民地化されてゆき、古来あこがれの大国であった中国まで西欧諸国の強引な外交に屈したありさまを見れば「明日はわが身」の危機感はたいへんなものだったに違いありません。富国強兵、立身出世、文明開化の流行などは、そんな緊張した時代感覚から生まれたサバイバル術だったのでしょう。宗教的権威の希薄な日本の風土のもとで、高度な精神性を保ちつつこれほど国力を発揮できたのは、圧倒的多数の人々の勤勉で正直な生活態度と「読み、書き、そろばん」という基礎学力の普及があったからだといわれています。節目の時代にめぐり合わせた人々は、現実を素直に受け止めて、命がけで持てる力を発揮して生きぬいてきたに違いありません。
 わたしたちがめぐり合わせたこの時代は一国どころか地球史上でもまれな節目の時代だと思います。たとえば、環境問題について、今はとりあえず「環境にやさしい・・・」などとあまえた言葉が流行ってはいるものの、地球についてわからないことだらけだし、いろんな利害がからんでグローバルな進展は思わしくないまま事態は進行しています。「あやしげな魔術をつぎつぎ繰り出し、争いを繰り返し、略奪をほしいままに地上を闊歩する巨大な生物の集団」ちょっとオーバーかもしれませんが、地球上の生き物たちにとって、人間は、SFマンガにしばしば登場する悪魔の大王たちそのものに見えると思います。おまけにまぬけで気まぐれとなれば地球は物騒きわまりない状況にあるといえます。(たとえば、私が学生の頃、原子炉がよく話題になっていました。ある先生が「原子炉は5段階の安全システムに守られているから心配ない。」といったことを話されていましたが、理論が完璧でも物と人間が関かわると思わぬところで事故が起きるし、燃料は兵器にも利用されうるし、やはり核は物騒なものです。)
 人間の活動がグローバル化した今では、もはや人間同志の取り決めだけでは物事をすすめられなくなってしまっていますが、これからの時代をどう展開して行けばよいのか誰もわからないようです。
 21世紀は「個々に幸せを創り出す時代」「自ら答を創り出す時代」「コミュニケーション能力とチームプレーの時代」「理性による自己コントロールの時代」・・・・と、これからの「知識基盤型社会」を支えるために必要な項目がつぎつぎ登場しています。どのキーワードも新しい文化の胎動を予感させる混沌とした現代の一面を言い当てていると思います。
 専門分野の最前線に居られる学生のみなさんはいわばこの節目の時代の先端を歩んでおられるのですから当然予期せぬことに出くわす日常だと思います。いつの時代にも何ごとにも矛盾やわずらわしさはつきものです。ただ、現代は意欲さえあれば何をするにもいくらでもチャンスがあるというおもしろい時代でもあります。この混沌とした節目の時代は、グローバルな目で現実を捉えて、理想を掲げ、命がけで生きてみる値打ちが十分にあると思います。